琵琶湖の北の端ににぽっかりと浮かぶ、人は住まず、神のみが住む島、竹生島(ちくぶしま)。
この島影を見つけると、湖北に来たんだなあと実感させられます。
思いがけなく、私の愛読書・白洲正子さんの「かくれ里」の地を訪ねる旅をすることができました。
訪ねたのは、琵琶湖の最北端、塩津の西の半島にある、菅浦(すがのうら)という小さな小さな集落。
この集落への道は1本しかありません。
三方を山に囲まれ、南は湖、東は行き止まりという、まさに秘境といえる集落です。
この地には、奇想天外な伝説がずっと息づいています。
菅浦の人々は、天武天皇の孫、淳仁天皇に仕えた人々の子孫だと信じています。
淳仁天皇は、藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)に巻き込まれ、無実ながらも淡路へ流された悲劇の帝。
歴史書では淡路島の高島に幽閉され、その後脱走を図ったのが発覚して殺された、とあるのですが、
菅浦の言い伝えでは、「淡路」は「淡海」の誤りで、高島も、湖北の高島だというのです。
この村への唯一の道が通る岬は「葛籠尾崎(つづらおさき)」といい、これも、帝の遺体を奪って、高島から
つづらに入れて運んだことから名づけられた、と言います。
帝をお守りしていた土地だからか、つい最近まで極端に外部との接触を嫌う集落だったそうです。
村の入り口にある四足門。東西南北すべての出入り口にあり、人の出入りを検札していました。
淳仁天皇のお住まいだったと言う「須賀神社」。
もとは「保良神社」といい、帝の仮宮だった「保良の宮」跡だということです。
保良の宮は、滋賀の石山とも信楽とも、まだ定かではありませんが、この、自然の要害のような湖北の地に
悲劇の帝をお守りしていたとしても、不思議ではない感じがします。
この神社の本殿には淳仁天皇が祀られており、本殿の裏には帝の舟形の御陵があるそうです。
その御陵に続く、長い長い参道。
山の斜面をずいぶん登っていかなければなりません。
テレビで見る、ピラミッドの内部の通路のように、長い長い坂道が続きます。
不思議なことに、私達が参道を進んでいくと、山のカラスが頭上でカーカーと鳴きわめいているのです。
まるで「よそ者が来たぞ!帝をお守りしろ!」と言っているかのように。
本殿の下には、こんな案内が。
白洲さんが訪ねた時には、靴を脱がされ、裸足で御参りされたのだそう。
私達は下駄箱にあったスリッパをお借りして・・・(本当はよそ者はここから先には入ってはいけなかったのかもしれないとも思いましたが・・・)
本当に何かいる、と感じさせられる本殿。
淳仁天皇は、崇徳天皇とともに、無実の罪を着せられ、無念のうちに廃せられたため、とても強力な怨霊となって都に祟った方なのです。。。
この二帝は京都の白峯神宮に、魂鎮めのために最上級の扱いをもって祀られております。
(今は、白峯神宮はサッカーの神社として修学旅行生に人気の神社となっていますが、本来は、怨霊封じのための神社なのです。)
参道を下っていくと、こんな景色が広がります。
左にちょっぴり見えているのが集落。
集落を出て、奥琵琶湖ドライブウエイから菅浦を眺めると・・・
右の木立のところに見えているのが菅浦。
一直線に見えるのが、私達が参った参道。本当に長いですね。
この小さな小さな集落に伝わる伝説は、史実ではないかもしれません。
でも・・・この村の人々は、1300年以上もこの言い伝えとともに生きてこられたのでしょう。
村の人々にとっては、まぎれもない村の歴史であり、誇りを持ってこの言い伝えを守ってきたのでしょうね。
お気の毒な運命を辿られた若い帝を、こんな人里離れた小さな村の人々が大切に思い、かしづいていたのは、
案外本当だったのかもしれないと、21世紀の今でも思わせられるかくれ里でした。
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